欲
私はコーヒーを買いに来ただけだったが、数分もすると、コートが、ブラウスが、ハンドバッグが欲しくなった。つまり頭の中で、自分にたくさんのコートやブラウスを次々に着せてみていた。たおてば、黒のオーバーコート。私はすでに黒の七分丈のコートを一着持っているにもかかわらず(けれど、同じではない、同じであることなんて一度もない。欲しいデザインの服と持っている服の間に無限にある違い、襟、丈、生地、等々)——。無差別に全ての服が欲しくなり、最も重要で緊急のことは一着のコートか一点のハンドバッグを買うことだと感じる奇妙な状態。外へ出ると、私の欲望は冷めた。
アニー・エルノー『戸外の日記』堀茂樹訳、早川書房、1996
見てみると、これは1986年に書かれた文章だそう。この頃はお店を出たら気持ちが冷めたのだろうか。それなら心底うらやましい。今はお店を出ても、インターネットがどこまでも着いてくる。むしろ欲望が高まるのは、深夜にベッドの中で意味もなくスマホ画面を眺めているときだ。真っ暗な部屋で、青白く発光する画面が呪いのようで、くっきりと燃え上がる欲望を映し出している。私はあまりにも苦しくなると眠ってしまう。目が覚めたとき、欲望は薄くなっている。あくまでも薄くなっているだけ。夜になればまた思い出される。
LO*V*E
国立新美術館で始まったばかりの「ルーヴル美術館展 愛を描く」を見てきた。
やっとフランスがたくさん絵を貸してくれるようになったので嬉しい。今年はマティスも見られるようだし。そしてコロナ禍真っ只中でも日本に絵を送ってくれたオランダ、イスラエル、あとはドイツもかな。本当にありがたい。
筆触がない、大画面の、ロマン主義全振りのコッテリした油彩画に人が群がるのを見たとき、”日常”を思い出す。
“日常”がないと日本で天使の絵を見ることは難しい。”非日常”こそ現実ばかり見せられる。
ずっと天使の絵が見たかった。
愛をテーマに絵が選出された今回の展示。
ヴァトー、ブーシェ、フラゴナールといったロココ大御所がメインで出てはいるけれど、甘いだけではなく厳しさや悲しさを感じるものが多い。
そういえば日本語では「愛しい」を「かなしい」とも読む。
慈愛、友愛、エロス、親子・家族の愛、愛から生まれる嫉妬、誘惑、暴力、自己犠牲。
絵の背景にある様々な物語を読んでいて、揺らぐことなく信頼できる絶対的な愛って結局、神の愛しかなかった。
お土産に、マリアージュ・フレールの展覧会限定フレーバー「LOVE LOUVRE」を買った。
濃くてもったりした味を想像したのだけれど、バニラと柚子ですっとした清涼感のある甘さなのが意外だった。これはきっと清澄な愛。
白い場所
祖母の葬儀に参列したとき、それは仏教式だった。ああ、私のはこれではない、と直感的に思い、とてつもない悲しみと無力感を味わった。これでは天国に行けないと思った。神さまを裏切るような後ろめたさがあった。今まで私を守り抜いてくれていた人を。普段、祈りもしない。思い出しもしない。意味のないことだとさえ思う。でも、私がつらいときにすがり、昔まだ目に見えないものの存在を信じていた頃に導かれたのは、あの光だ。これまで積み上げてきたいくつもの罪、ずるさ、弱さよりも、自分がずっと悪いことをしているように思えた。
sug
必要とする時に一緒にいてくれたから。初めて感性を認めてくれた他人だから。
やっぱり大学の友人ってずっと特別だな。お互いに。
中高の友人とも仲良いけれど、あの時は誰もがもっと自分のことで精一杯だった。
たとえ時を経て、人が変わってしまったとしても。
あなたがあなたを見失ってしまったとしても。
私はあなたを知っている。あなたも私を知ってくれている。
好きではなくなっても愛がある。
この歳になって、ようやく、そして余計に強く思うこと。
無機質
電車に乗っていたら、目の前の席に座っていた女の人が、手にクリスマス柄のスタバの紙袋を下げていた。しばらくして彼女が降りて、入れ替わるようにその席を埋めた女性も、同じ紙袋を持っていた。こういう時に様式的で機械的なクリスマスを感じる。
自分の誕生日はなんとも思わないけれど、クリスマスは特別だ。あたたかい思い出であふれている。家族と過ごした日。恋人と過ごした日。友人と過ごした日。文字通りあびたシャンパンとワイン。
今年は静かにしたくて、クリスマスとは真逆に日本美術を見に出かけた。思った通り、都内の割にはどこも空いている。美術館は空いていてもショップ系は混雑していて、同僚のプレゼントを買うのは諦めた。
今はspotifyでくるみ割り人形を聴きながら年賀状を書いている。何事も並行して仕事をこなしていく。忙しい年末こそムードよりも効率と合理性が優先。いくらなんでも無機質なクリスマス?来年はバレエかコンサートでも見にいこうかな。
fantasy
大人になるとファンタジーがさっぱり頭に入ってこない。とよく母が言っていた。子供だった私は、そんな日は来ないでと願って、ハリー・ポッターが楽しくなくなってしまうことが怖かった。その一方で、早く大人になりたくて仕方なかった。ファンタジーが楽しいのは、外の世界と、自分の限界を知らないからだ。自由を手にした瞬間、目の前に立ち現れるのは現実だ。ファンタジーも自由も、制約があるから魅力的なのだ。
ラッキーなことに比較的ファンタジーに抵抗のない大人になったけれど、昔ほど純粋に楽しめているのかはあまりわからない。自由と現実を味わっても、ファンタジーを愛せる大人を、ファンタジーを創造できる大人を、本当の意味で何にも捉われず真実を語る人を、私は尊敬してやまない。
その女の子は紛れもなくお姫さまだった。すその長いトルコグリーンのドレス、そしてつややかなブロンドの髪の上には銀のティアラをのせている。でも、お姫さまだとわかるいちばんの決め手は、その非難がましい目つきだった。
『ロドリゴ・ラウバインと従者クニルプス』、ミヒャエル・エンデ、ヴィーラント・フロイント、木本栄訳、小学館、2022
junaida展は、子供の頃の空想に満ちた夜を思い出す場所だった。