月蝕

ふと月蝕の日のことを思い出した。仕事を終えて帰る途中、人の塊をいくつも見た。皆同じ方向を見上げている。その先を探すと、高層ビルの隙間から真っ赤な月が見えた。ちょうどルビーグレープフルーツの色に似ている。血の色のようにも見えるけれど、もっと透き通っていて、宝石が夜空に貼り付いているみたいだった。燃えるようなと言うよりは、どちらかというと冷たそうだ。
都会だと、空が見える場所は限られている。そうした場所に点々と、人が集まっている。何をする訳でもなく、普段は通勤電車の中でスマホの画面ばかりを見つめている人たちが一様に、同じ月を眺めている。常に放射状に人が散ってゆき、波のように果てなくうねるいつもの都会の景色からは想像もできない。驚くような静止と静寂だ。
誰も何も話さない。無言で、放心したように、ただ見上げている。SF映画の一場面でも見ているのだろうか。宗教的な、儀式めいた雰囲気がそこにあった。

なんだか屈してはいけないような気持ちになって、私は絶対に立ち止まらなかった。駅を目指して歩き続けた。ときどき月の位置を確かめながら。

20th-century

私は20世紀の終わりに生まれたから、あの時代のことも少しだけ覚えている。
あの頃のパソコンっていつも固まってた。ちょっと触っただけで。
インターネットが定額料金じゃなくて、しょっちゅう使いすぎては怒られていた。
怒られるけれど、「夢を失ってほしく無いから」という理由で、両親が具体的な金額を教えてくれることはなかった。
大人になった今聞いても教えてくれないのだから、きっと相当に使い込んでいたのだと思う。

青緑色のスケルトン素材のMacか、灰色のWinを家族で交代で使う。
でもたった数年後、21世紀になった頃には自分だけのノートPCを買ってもらった。そういう時代になった。

だから世紀末って、退廃だとか何かが終わるのではなく、新しいものが生まれる時なのだと思っている。
まあ生まれるものがあるのなら、滅びるものもあるのだけれど。

インターネットが世界の全てを繋いでいく瞬間を、そして分断していく瞬間を、私が目の当たりにしたあの時から。
そのだいたい100年前に、この人は生まれた。そして20世紀というその時代に、新しい芸術を世界に放ったのだ。


上野の国立西洋美術館で開催中の「ピカソとその時代」展。
ドイツのベルクグリューン美術館から、日本初公開のハイレベルな作品が多数貸し出されている。
もともと美術商・ギャラリストだったハインツ・ベルクグリューンのコレクションを礎とし、彼が熱心に収集した同時代の画家として、ピカソだけでなく、クレー、マティスジャコメッティの作品も充実している。
彼らの作品の革新性は、それだけ20世紀が複雑だったという、言わば時代の鏡写しだ。
激動の世紀と呼ばれる前世紀から変わらないのは、人がいまだに猛スピードで驀進を続けているということ。

初めて自分だけのPCを手にした、たしか12歳の誕生日だったと思うけれど、大きな夢と自由を得たような気もしたし、あれが尽きることのない欲望の始まりだったような気もする。

manet

ここ最近というより、もしかしたら今年の中でも質の良さでかなり上位にくるのが、練馬区立美術館の「日本の中のマネ」展。
都心から割と離れているので行くのを先延ばしにしていたのだけれど、悔いの残らない一日となった。

エドゥアール・マネといえば”近代絵画の父”と呼ばれ、革新的な画家として誰もが知るところである。
ところが、日本で印象派は人気があるけれど、マネの作品は案外少ない。
それもだいたいが晩年の女性像。モネやルノワールの絵はあらゆる時代のものがこんなにもたくさん日本にあるのに。
果たして日本でマネはこれまでどのように受容されてきたのか。そもそもマネって印象派なの?
と、森鴎外が初めて日本にマネを紹介した1889年からの歩みを丁寧に紹介、考察している。

国内にあるマネ作品および、マネを取り巻く印象派画家たちの作品から始まり、マネの影響が見受けられる明治〜昭和の日本洋画の紹介もとても面白いが、「現代においても新解釈が可能なのがマネの魅力」と結論づけたところがこの展覧会の最も肝要な部分であったように思う。
そして福田美蘭が天才すぎる。つまり福田美蘭がすごい。
サロンにこだわったマネの気持ちを考察するために日展へ出品をしたという例の作品。
落選のため再展示されていた。
他人がどうこういうのもあれだけれど、落ちることで再現性が高まったとも言えるのではないか。


ところで、本当になんでマネって人気無いんだろう。
展覧会ではアカデミックな側面でそのことを考察しているのだけれど、直感だけで言うのなら、日本で人気のある他の印象派に比べて、マネって「かわいい」や「映え」から一番遠いんじゃないかって思う。
ゆるくてふんわりかわいいが無いとやっぱり日本で当てるのは難しい。マネ先生は硬派すぎたのかな。
私がいちばん好きな「日本の中のマネ」は、ポーラ美術館にある《サラマンカの学生たち》です。

蜜蝋と薬草

美術館で「におい」を感じることってほとんど無いのに、嗅覚に訴える作品が2つもあったのが印象的だった。
蜜蝋と薬草。どちらも全身がつつまれて土に還るかのような安心感のあるにおい。

森美術館の「地球がまわる音を聴く:パンデミック以降のウェルビーイング」は、国内外の作家の作品を通して「よく生きる」ことを考察する。
タイトルの”地球がまわる音を聴く”は、オノ・ヨーコの詩集『グレープフルーツ・ジュース』から取られたものだ。
この命令口調の詩集は、決して押し付けがましくなく、読み終えた頃には普段怠けていた五感が研ぎ澄まされて、清澄な気持ちになる。
まさにあれを読んだときと同じ感覚を呼び起こす展示内容だった。
それぞれのアーティストが自身の文化や宗教、主義主張を提示しつつも、お互いを干渉しない静かで優しい世界。

ヴォルフガンク・ライプの蜜蝋で囲まれた小部屋の中で、
「過去の記憶を何より克明に蘇らせるのは、それにまつわる匂いである」というナボコフの言葉を思い出した。
今でもあの溶け出しそうな甘い香りと、電球の温かい光がはっきりと蘇る。

怠惰

79歳のデュシャンにインタビューした本を読んだ。
デュシャンは語る』、マルセル・デュシャン、聞き手:ピエール・カバンヌ、訳:岩佐鉄男小林康夫、1999、ちくま学芸文庫

怠惰で、楽観的で、ブルジョワ然としていて、ミーハーで承認欲求もちゃんとある。高尚というよりも実は案外わかりやすくて、お金にもそこそこ執着して、世俗的なところが面白い人。

私はヴァロトンにはいつも感心していたのです。赤と緑がすべてを支配している時代にありながら、彼はとても深みのある茶色、冷たく褪せた色あいを使っていましたからね。

(メッツァンジェは)キュビスムを説明したのです。ピカソは何も説明してくれなかったのに。いろいろなことを言いすぎるよりも何にも言わない方がいい、とわかるまでには、もう何年かかかりました。しかしそれでも、当時メッツァンジェがピカソに対して大きな敬意をはらっていたということに変りはありません。

《判断》というのも、ひどく厄介な言葉です。たいそうな危険な言葉で、しかもフラフラして弱々しい。ある社会が、いくつかの作品を受けいれることに決めて、それでルーヴルのようなものをつくり、それが何世紀も続く。しかし、真実とか本当の、絶対的な判断について語ること、私はそんなことはまるっきり信じていません。

そう、プリミティヴ派です。その後のものは受けいれ難い。ラファエロのようなもの。なぜなら、わざわざそういう所に絵をもっていってしまい、社会の階層構造がそうした絵を加護していたのを感じてしまうからです。

私には途方もない怠惰が根底にあるのです。働くことよりも生きること、呼吸することの方が好きなのです。

私はとても幸せです。

 

3 days, after

3連休の初日はSNSで見て気になっていたブックショップへ。中央線沿線のほとんど降りたことのない街。もしかしたら初めてかも。少しだけ気合いのいる場所で、緊張しながら出かけたけれど、結果的に楽しいお買い物ができた。暑さがすぎて涼しくて。駅からそれなりに歩いても汗は出ない。もうすぐ夕方になりそうな、まだ昼に別れを惜しむような空の色。真っ白な扉のオーク調のノブに手をかけた瞬間が一番緊張したかもしれない。海外のお店みたいだな。店内に入った瞬間、コーヒーのいい匂い。40分ほど書棚を吟味します。私の輪郭がどんどんとけていくのがわかる。目星をつけた4冊をお会計。本を購入するとコーヒーが注文できるようです。せっかくなのであたたかいカフェラテを飲む。甘ったるい気持ちに浸りながら、かけてもらったブックカバーを丁寧に外して書影を楽しむ。何ならブックカバーの手触りも楽しむ。つるつるしていて、本に吸い付きそう。
帰り道はあまりピンとこなくて、そのまま真っ直ぐ帰ってしまったけれど、後から調べてみたら他にも良い書店や飲食店があったみたい。次はきちんと拾えますように。

2日目は用事があって百貨店。本当に用事を済ませただけ。帰ってからワインと無花果のサンドイッチと読書。Netflixでホラー映画をあさる。

3日目。今日こそは美術館に開館時間アタックするぞと意気込むものの、ダメだった。出かけられたのは案の定、午後。美術館のあとは図書館に2時間くらい滞在して小説を一冊読む。大濱普美子さんの『十四番線上のハレルヤ』。皆川博子さんがおすすめしていたのと、新しい作品の『陽だまりの果て』が泉鏡花賞をとったようなので試し読み。短編集なのだけど結構いろんなジャンルにまたがっていて、「鬼百合の立つところ」という話が好きだった。「劣化ボタン」も良かったな。ちょっとだけ薄気味悪くて、残酷で、ふわふわしていて、悲しい。でも綺麗なのよね。向こう側へと繋がっているみたい。

余白

父との会話がきっかけで、方丈記を再読した。そこらを歩いていた人が突然倒れてそのまま死んでしまう、という描写が、何度読んでも強烈に感じるものだ。自分の人生を特別だなんて思わず、運に期待せず、執着しない、去るべき時に去ることができたら。それでも俗世が気になってしまう様子が伺えるのが方丈記のかわいいところ。

 

方丈記を読んだ後にそのまま六本木の李禹煥展を見に行った。方丈記よりよっぽどストイックに煩悩から離れた世界だったかも。何もない空間や余白を味わう作品が多いのだけれど、その完璧に配置された余白に闖入する自分の体と、存在とを、嫌でも感じ取ってしまう。でも妙に頭と思考がすっきりと、清澄になる。現代アートの展示というより、瞑想体験のようだった。

 

手放したい、軽くなりたい。そう願いながらも、バブル期の人のような物欲の私は、三越のポップアップストアでお洋服と靴をしこたま買ってしまった。さらに、贅のカリスマとでも言うべきフィッツジェラルドの『夜はやさし』に煽られて、今はカイザーシュマーレンが無性に食べたい。明日仕事帰りにカフェ寄ろうかなあ。